ヨシの箸から祖母の思い出

縁があって、宇治川のヨシを材料に使ったバイオプラスチックの箸🥢をランチ用の箸に導入しました。

宇治川にあるヨシ原では三月の中頃に春を告げるヨシ焼きが行われています。その宇治川のヨシ原はツバメの一大ねぐらにもなっているそうで、伝統建築の材料や祭りの炬火(松明)の材料になっている貴重なそのヨシ原を守る市民のさまざまな取り組みが行われていて、この宇治川ヨシの箸もそんな動きのなかから生まれてきたそうです。

そんなヨシのことで想い出すのは、私の祖母のことです。生きていれば100歳を越えた頃でしょうか。私が子どものころです、祖母は近くの川(庄内川)からヨシを積んできて、夏前には家の裏でヨシズを編んでいました。その頃はリヤカーでひとり刈り取り、積みに行っていたと思います。

40年くらい前ですが園芸農家だった祖母はリヤカーや一輪車で畑と家を行き来していたなぁと記憶がよみがえってきました。 そんな祖母、戸籍上は祖母ですが、実は血縁上は、叔母さん。父の姉なのですが、生まれたときから家にいるので、ずっと祖母と思っていました。「おばあちゃん」と呼んでましたし、近くに住んでいた血縁上の祖母は「おおきいおばあちゃん」と呼んでいたように思います。 「おばあちゃんはアンタらがかわいいんだわ、子どもがいないから……」とよく言われました。小さな頃はそんなことには疑問も持たずにいましたが高校ぐらいになると、血縁上は叔母さんなんだということがわかりました。

三月は大空襲の月。太平洋戦争の末期、1945年の三月は日本の大都市が大空襲に襲われた月。継戦能力を絶つために行われていた工場地帯への空襲から都市の人口密集地への空襲へと変わっていったのが1945年の三月半ば。当時名古屋の中心部に嫁いでいた祖母は三月の名古屋大空襲で焼け出されて、実家に戻ってきたのです。

おざわゆきさんの漫画「あとかたの街」はその名古屋大空襲を描いた漫画ですが、その凄まじい空襲からどんなふうに祖母夫婦は生き延びて、実家に戻ってきたのか、祖母からそんな話しは聞いたことはありません。


記憶では夏の晩の蚊帳の中の風景なのですが、祖母が孫としてのわたしに語りかけていた時には、そんな風に生きてきたことを話してくれたことはありませんでした。 アジアへの侵略の果てに英米蘭との戦争から国家破滅寸前の焦土へといたる太平洋戦争の跡は私の子どもの頃、見つけようと思えばそこかしこにありました。

宇治川産のヨシの箸🥢を持つと、いまもモンペ姿に日本手ぬぐいをかぶって一輪車を押す祖母の姿が甦ってくるのです。